長野地方裁判所 昭和30年(行)4号 判決 1959年6月09日
原告 重田うめ
被告 大町労働基準監督署長
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
原告訴訟代理人は「被告が昭和二十六年九月二十七日、原告に対する信州大学附属病院における療養補償費はこれを支給しないとした処分は無効であることを確認する、訴訟費用は被告の負担とする」との判決を求め、その請求原因として、
(一) 原告は昭和二十一年十二月十八日呉羽紡績株式会社大町工場の前身である大建産業株式会社大町工場に雇傭され、それ以来同工場の工員として勤務していた。
(二) 原告は昭和二十四年四月七日当時配属されていた同工場混打綿室において、棒綿の整理作業に従事中、竹籠内から棒綿を取出して選別台に移そうとした時、左足が滑つたため竹籠がはね、その縁で左胸部を打撲し、更に傍にあつた棒綿台の枠で右胸部を打ち、その結果左第七乃至第十肋骨々折挫傷並びに右第四肋骨打撲の傷害を受けた。
(三) 原告は(1)直ちに前記勤務先工場の嘱託医鳥養進および大町市内の柔道整復師栗林隆治の治療を受け、(2)同年五月三日から昭和電工株式会社大町工場附属病院(以下昭電病院と略称する)に通院して治療を続けた後、同年八月二十九日同病院に入院し、同病院の医師高橋守雄より、同年十二月までの間に三回に亘つて左第七乃至第十肋骨切除手術を受けたが、全身倦怠、胃痛、嘔吐、両側胸部疼痛、食欲不振、心悸亢進等の病状を呈し、主治医高橋守雄も転医のやむなきを認めるに至つたので(3)昭和二十六年五月十七日右病院の看護婦附添のもとに信州大学附属病院(以下信大病院と略称する)丸田外科に転医し、次で同年八月七日同病院岸本内科に転科し、同年九月三日同病院を退院、(4)引続き大町市平診療所平林慎男医師の治療を受けたが、前記肋骨々折による障害が依然として治癒しなかつたので(5)昭和二十七年十月二十日豊科赤十宇病院に入院の上、翌二十一日同病院の医師最所邦広より左第八乃至第十肋骨の神経胞並びに神経癒着切開の手術を受け、引続き同病院で療養に努めた結果、漸く病状が安定し軽快するに至つたので、昭和二十八年一月三十日退院し、その後自宅から同病院に通院して加療し、同年四月二十日治療を打切つた。
(四) (1)原告は前記業務上の負傷である肋骨々折ならびにそれに起因する疾病に対し労働者災害補償保険法に基く療養補償費の給付を受けて治療して来たのであるが、被告は原告に対し、昭和二十六年九月二十七日、原告の業務上の負傷に起因する疾病は昭和二十六年五月十六日治癒したとして療養補償費の給付を同日限り打切り、信大病院における療養補償費は支給しない旨の決定をし、この決定はその頃原告に到達した。(2)しかしながら右決定当時原告の前記負傷に起因する疾病は治癒しておらず、原告はこれが治療のため前述のように信大病院大町市平診療所、豊科赤十宇病院で療養し、昭和二十八年一月三十日漸く治癒して豊科赤十宇病院を退院したのであるから、前記決定は原告の業務上の負傷に起因する疾病の治癒時期の認定を誤つた違法があり、しかもその瑕疵は明白かつ重大であるから無効である。(3)原告は被告が療養補償費の給付を打切つた昭和二十六年五月十六日以降も業務上の負傷に起因する疾病を治療し、昭和二十八年一月三十日治癒するまでに合計十八万千五百九十七円七十五銭の療養費を支出した。そこで原告は昭和二十八年二月九日労働者災害補償保険官に対し、前記決定を不服として審査請求をしたが、同審査官は同年六月九日労働者災害補償保険法第四十条所定の期間経過後の請求であるとの理由の下にこれを却下し、原告はこれを不服として更に長野労働者災害補償保険審査会に審査請求をしたが、同審査会も右保険審査官のなした裁決と同じ理由をもつて、これを却下した。
よつて被告のなした前記処分の無効確認を求めるため本訴請求におよぶと陳述し、
被告の主張に対し、被告が被告主張の日、その主張の如き障害補償および休業補償の決定をして原告にその決定した金額を支給したこと、原告が右障害補償の決定を不服として被告主張の如く審査の請求をし、棄却の決定がなされ、これに対し再審査の請求をしたが、これも棄却されたことは認めると述べた。
被告指定代理人は主文同旨の判決を求め、答弁として
請求原因(一)は認める。(二)、(三)については原告が左胸部を打撲した事実および左第七乃至第十肋骨々折挫傷を受けた事実ならびに負傷に起因する疾病の病状およびその経過、治癒の時期を否認し、その余の事実は認める。但し、原告は右胸部を棒綿台の枠で打つたのではなく、竹籠の縁で打つたのである。(四)の(1)事実は認める。(四)の(2)の事実中原告が信大病院・大町市平診療所・豊科赤十宇病院で療養し、昭和二十八年一月三十日右赤十宇病院を退院したことは認めるがその余は否認する。(四)の(3)事実については、昭和二十六年五月十六日以降の原告の療養が業務上の負傷に起因する疾病に対するものであるとの点を否認し、その余は認める。原告の蒙つた業務上の負傷は竹籠の縁で右胸第四肋骨部を軽打したことにより生じた右第四肋骨打撲傷であつて、昭和二十四年四月中に治癒している。原告が昭電病院において施された左第七乃至第十肋骨切除手術は右の業務上の負傷とは関係のない左胸部肋骨周囲膿瘍に対してなされたものである。従つて原告の業務上の傷病は同年四月治癒したものというべきである。又仮に前記肋骨周囲膿瘍が業務上の負傷に起因したものであるとしても、原告が昭電病院から信大病院へ転医した昭和二十六年五月十六日当時症状は安定し、再発の危険等の急激な変化は考えられず、向後の療養による医療効果も期待できない状態にあり、しかもその後の信大病院および大町市平診療所における治療は対症的療法に終始し、効果ある治療方法は殆んど行われていない。従つて原告の肋骨周囲膿瘍はおそくとも昭和二十六年五月十六日までには治癒したものといわざるを得ない。尤も原告はその後豊科赤十宇病院で手術を受けたが、それは昭電病院における左第七乃至第十肋骨切除手術後徐々に形成された神経障害に対する処置であつて、肋骨周囲膿瘍の治癒時期の認定に影響をおよぼすものではない。なお被告は原告に対し昭和二十八年十二月八日、障害補償第六級(六万七千七百二十八円)および休業補償(昭和二十四年四月八日より昭和二十六年五月十六日まで四万六千七百一円七十銭)の決定をなし、その支給をした。右障害補償決定に対しては原告から治癒の時期の認定を誤つたものとして昭和二十九年一月三日労働者災害保険審査官に審査の請求がなされたが、同審査官は同年四月十六日右請求を理由なしとして棄却し、原告はこれに対し、長野労働者災害補償保険審査会に再審査の請求をしたが、これも同年十一月二十九日棄却された。
よつて前記信大病院へ転医した時期をとらえて治癒したものと認定し、同日以降の信大病院における療養費を支給しないとした被告の処分には、当然無効とすべき重大かつ明白な瑕疵のないことが明らかであるから、原告の請求は棄却されるべきであると陳述した。
立証<省略>
理由
被告が昭和二十六年九月二十七日、原告に対する信大病院における療養補償費を支給しない旨の処分をしたことは当事者間に争がない。そして原告が昭和二十一年十二月十八日以来呉羽紡績株式会社大町工場の前身である大建産業株式会社大町工場の工員として同工場に勤務し、昭和二十四年四月七日、当時配属されていた同工場混打綿室で棒綿の整理作業中、竹籠内の棒綿を取出して選別台に移そうとした際胸部を打ち、胸部に業務上の負傷を負つたことは当事者間に争がないが、打撲および傷害の部位・程度・負傷に起因する疾病および病状経過、治癒の時期については争があり、原告は竹籠の縁で左胸部を、棒綿台の枠で右胸部を打ち、右第四肋骨打撲傷、左第七乃至第十肋骨々折挫傷の傷害を受け、昭電病院において、左第七乃至第十肋骨切除手術を受けたが治癒せず、信大病院、大町市平診療所で引続き治療を受けた後昭和二十七年十月二十一日豊科赤十字病院において左第八乃至第十肋骨の神経胞摘出および神経癒着切開の手術を受け、昭和二十八年一月三十日漸く治癒したのであると主張し、被告は竹籠の縁で右胸部を軽打し、右第四肋骨打撲傷を受けたにすぎず、原告が受けた左第七乃至第十肋骨切除手術は本件業務上の負傷とは関係のない左胸部肋骨周囲膿瘍に対してなされたものである。仮に肋骨周囲膿瘍が本件負傷に起因したものであるとしても、右疾病は原告が昭電病院から信大病院に転医した昭和二十六年五月十六日当時症状安定し、再発の危険等の急激な変化は考えられず、向後の医療効果は期待できず、治癒したものとすべきであると主張する。
一、原告の受けた打撲および負傷の部位・程度
当事者間に争のない事実と、成立に争のない乙第一・二号証第十二号証の一・二に証人鳥養進、同栗林隆治、同高橋守雄、同最所邦広、同太田沢治、同山本直治、同中村新平、証人兼鑑定人高橋正義の各供述、検証の結果、原告本人尋問の結果(高橋守雄証人の供述および原告本人尋問の結果中措信しない部分を除く)を綜合すれば、原告は、前記作業中竹籠の縁で胸部前面から右側を打ち、統いて棒綿台の枠で右胸部を打ち、その結果右第四肋骨部の不完全骨折(右第四肋骨と肋軟骨の離開)の負傷をし、右第四肋骨を中心として前胸部に長さ約三糎の腫脹を生じたこと、右の打撲により左胸部には傷害を受けず、左第七乃至第十肋骨々折は生じなかつたこと、原告は昭電病院において、三回に亘り左第七乃至第十肋骨切除手術を受けたが、それは左胸部の肋骨周囲膿瘍治療のためのものであつたことが認められる。原告は竹籠の縁で左胸部を打つたと主張するが、前顕山本、栗林両証人の供述および原告本人尋問の結果に照し、これを肯認できない。その他右認定に反する証人高橋守雄の供述および原告本人尋問の結果は措信しない。尤も成立に争のない乙第四・第五号証には第七・八・九・十肋骨々折の記載があり、又成立に争のない甲第一号証には左第七・第八・第九・第十肋骨々折挫傷後胎症の病名の下に、「左前腋下腺上第七第八第九第十肋膜に畸形膨隆を認む、この部を圧するに激痛あり、依つてレントゲン撮影をなすに該肋骨部に骨折像を認め、陳旧性仮関節を形成しあり、……依つて骨折処置絆創膏固定繃帯を施するも骨折部陳旧性仮関節を形成しあるを以て十分に癒合せず、……依つて此の仮関節動揺部を手術的に除却し疼痛を除かんとす、……此の三回の手術により陳旧性仮関節部は全部除去せられ、肋骨の畸形腫脹全く去る」と記載されているが、証人高橋守雄の供述によれば、原告は左胸部の疼痛を訴え、昭和二十四年五月三日より昭電病院に通院して同病院の医師高橋守雄の診察を受けたが、右胸部第四肋骨と肋軟骨の接合部位に化骨形成が認められ、骨折のあつたことがわかつたけれども、左胸部には、左第七・第八肋骨部位に僅かの隆起が認められただけで、特別の所見がなく、胸部の摩擦音と発熱・盗汗等の症状より陳旧性肋膜炎の診断の下に、健康保険によりその治療を受けていたところ、同年八月二十日頃レントゲンによる透視検査の結果隆起部位の左第七・第八肋骨に肋骨周囲膿瘍が生じていることが判明し、同月二十九日同病院に入院し、右高橋医師により前記の如く左第七乃至第十肋骨の切除手術を受けたこと、高橋医師は原告を入院せしめるに当り、大建産業株式会社や大町労働基準監督署と連絡交渉の結果、原告を労働者災害補償保険法の療養補償患者として治療することの承認を受け、公傷としての取扱に切替えたが、肋骨周囲膿瘍の病名では療養補償費の支給を受けることができないので、原告の病名を左第七乃至第十肋骨々折後胎症とし、乙第五号証に前記の如く表記し、乙第四号証には当初両肋膜炎後胎症兼右第四肋骨腺状骨折後胎症と記載してあつたのを後にそれに左第七八九十肋骨々折の文宇を加入し、又甲第一号証は原告の依頼により、原告の病気が業務上のものと認定される資料とするため作成したものであつて、事実と異る記載があり、前記の「左第七第八第九第十肋骨々折挫傷後胎症・仮関節切除手術」は肋骨周囲膿瘍とその療法としての肋骨切除手術が真実であり、レントゲン撮影により骨折像を認めたことも、陳旧性仮関節を形成していたこともなかつたことが認められる。次に成立に争のない乙第十一号証の一・二には左肋骨々折後胎症の記載があるが、証人最所邦広の供述によれば、これは原告の肋骨切除部(高橋医師により切除された肋骨切除部)に形成された化骨および神経癒着・神経腫の摘出手術を施した医師最所邦広が原告の持参した診断書(乙第十号証の一)に「昭和二十四年八月肋骨々折後遺症の診断にて昭和電工大町工場附属病院外科にて左第七・八・九・十肋骨の切除術を受く」とあつたのでそれに基き記載したに過ぎず、同医師が骨折後胎症であると診断して記載したものではないことが認められる。従つて右各証拠によつては前記認定を覆すことはできず、その他これを左右するに足りる証拠はない。
二、原告の肋骨周囲膿瘍は業務上の疾病か。
前記の如く原告は昭電病院で初診当時から高橋医師に左胸部の疼痛を訴え、左第七・第八肋骨部位に隆起が認められ、同月二十日頃にいたり同部位が肋骨周囲膿瘍に罹つていることが発見され、同病院でその手術をしたのであつて、右の疼痛・隆起は肋骨周囲膿瘍によるものと考えられるが、原告は本件負傷直後勤務先の大建産業株式会社大町工場附属病院の医師鳥養進に竹籠の縁で右胸を打つた旨を訴えてその治療を受け、翌四月八日からは同様の訴をして整復師栗林隆治の許に通い、同人より右第四肋骨部の不完全骨折に対する治療を受けたのであるが、その間鳥養・栗林両名に対し左胸部を打つた旨および同部位の苦痛・疼痛等を訴えたことはなく、右両名も原告の左胸部には打撲による異状は認めなかつたこと、原告は結核性の陳旧性肋膜炎の病気があり、本件負傷以前からそれが悪化していて、昭和二十四年三月二十五日以来前記鳥養医師の治療を受け、受傷後も四月十三日までその治療を続け、昭電病院に通院するようになつてからも、同病院の高橋医師より陳旧性肋膜炎の治療を施されていたこと、原告は最初左第七・第八肋骨を周囲膿瘍に侵され、昭和二十四年九月五日その切除手術がなされたのであるが、その後左第九肋骨が同病に罹り、同年十月十一日これを切除し、手術後更に左第十肋骨も同病に侵されたので、同年十二月十二日その手術をしたのであつて、左第七乃至第十肋骨が同時に周囲膿瘍に罹つたのではなく、左第七・第八肋骨より順次第十肋骨に同病気が拡がつたものであること、医師高橋守雄は昭和二十四年八月二十日頃レントゲンの透視により原告の左第七・第八肋骨に周囲膿瘍が生じていることを発見するまで、左胸部には異状を認めなかつたことが成立に争のない乙第一乃至第五号証、同第十二号証の三と証人鳥養進、同栗林隆治、同高橋守雄の各供述を綜合して認められ、右認定に反する原告本人尋問の結果は措信しない。そして鑑定人高橋正義、証人最所邦広の各供述によれば、肋骨周囲膿瘍は主として結核から起る緩性的化膿瘍であつて、外傷により肋骨を傷めた場合そこが侵されて周囲膿瘍となることはあり得るが、右胸部の打撲により左胸部の肋骨々折を生ずることはなく、又左胸部の震盪症も、右胸部の打撃が強度のものでなければ起り得ないことが認められる。右認定の事実に先に認定の原告の受けた打撲および傷害の部位・程度と前顕乙第一乃至第五号証、同第十二号証の一乃至三、証人鳥養進、同栗林隆治、同最所邦広、鑑定人兼証人高橋正義の各供述を合せ考えれば、原告の肋骨周囲膿瘍は昭電病院に通院し始めた昭和二十四年五月上旬頃発病し、徐々に悪化したのであつて、既往症の陳旧性肋膜炎に原因し、原告の受けた打撲傷がそれを誘発増悪せしめたものではないことが認められる。従つて原告の肋骨周囲膿瘍は業務上の負傷に原因する疾病ということはできず、又業務に起因することの明かな疾病ということもできない。この点につき証人高橋守雄は「肋骨は籠のようなものである部分を打つたり圧迫したりした場合、その部位の反対側の肋骨が骨折したり、ひびが入つたりすることがある。原告の場合も多分そんなことで肋骨に亀裂骨折を起し、そこへ結核菌が侵入して肋骨周囲膿瘍になつたのではないかと考えた」旨を供述するが、同供述は同証人の左肋骨切除手術の際、骨折の跡は認められなかつた旨の供述および前顕各証拠に照し採用し得ない。
三、治癒の時期
前顕乙第三乃至第五号証と証人高橋守雄の供述によれば、原告は昭和二十四年五月三日以来昭電病院に通院・入院中を通じ、右第四肋骨部骨折の治療を全然受けていないことが認められ、この事実に前顕乙第一・二号証および証人鳥養進、同栗林隆治、鑑定人兼証人高橋正義の各供述を綜合すれば、右第四肋骨部の骨折は昭和二十四年五月上旬治癒したことが認められる。
以上認定の如く、原告の蒙つた業務上の負傷は、昭和二十四年五月上旬治癒したのであるから、その後の療養は労働者災害補償保険法の療養補償の対象とはならず、原告の本訴請求は失当といわざるを得ないのであるが、仮に肋骨周囲膿瘍が業務上の疾病であるとしても、以下説示の如く、右疾病は昭電病院退院時には治癒しており、その後の療養補償費の給付は受けられないのである。即ち成立に争のない乙第三乃至第六号証、同第八・第九・第十八号証、同第七・第十・第十一号証の各一・二に証人高橋守雄、同徐先渭、同宮下努、同平林慎男、同最所邦広、証人兼鑑定人高橋正義の各供述、原告本人尋問の結果の一部を綜合すれば、昭電病院の医師高橋守雄は第三回の手術の抜糸をした昭和二十四年十二月十九日原告の肋骨周囲膿瘍は治癒したものと認め、退院を勧めたが、原告は肯んせず、同病院・信大附属病院・大町市平診療所で治療を続けた後、昭和二十七年十月二十一日豊科赤十宇病院において左第八乃至第十肋骨の神経腫摘出・神経癒着切開の手術を受けたのであるが(一)昭和二十四年十二月十九日以後昭電病院・信大病院および大町市平診療所では肋骨周囲膿瘍の治療はなされず、胸痛・胃痛・腹痛・心蔵部の疼痛・貧血等に対する対症的療法に終始し、(1)昭電病院においては、原告は手術後全身倦怠・嘔吐・胸部心蔵部の疼痛等を訴え、又診察の結果胃下垂症であることが判明したが、高橋医師はそれ等の症状は原告の弛緩性体質によるものと診断し、対症療法を施し、なお血液検査の結果陽性反応があらわれたので駆梅療法をし、昭和二十六年五月十七日まで入院させたが、前記症状好転せず、原告の希望もあつたので更に精密検査を受けさせるため、信大病院に転医させた、(2)原告は信大病院において初め丸田外科で、後に岸本内科で治療を受けたのであるが、栄養状態不良で前同様左胸部の疼痛・心悸亢進・胃腸障害を訴え、検査により胃下垂症、ワツセルマン反応陽性の結果が出た外糞便中に蛔虫卵・十二指腸虫卵が認められたが、主訴は手術部位を中心とした左胸部の疼痛であつて、それは発作的に増強する性質のもので、持続的なものではなく、原告は高橋医師の手術に対し不満を懐き、当時神経症的な精神状態にあつた、これに対し、丸田外科では主として医師徐先渭が治療に当り、胃腸障害に対する投薬をする一方左胸部の疼痛については、手術後の肋間神経と周囲組織の癒着による疼痛ではないかと疑い、肋間神経切除の手術を考えたが、原告の不安定な精神状態に鑑み、その治療効果が期待できなかつたので、注射等による姑息的療法を行つただけで、体力を増強せしめるため、岸本内科に転科させ、同内科では医師宮下努が担当医となつたが、内科的な治療に終始し、蛔虫・十二指腸虫の駆除をした外腹痛と貧血に対する処置をしたのみで、胸部の疼痛に対する治療はなさず、昭和二十六年九月三日退院させた。(3)原告は信大病院退院後昭和二十六年九月六日から翌年十月二十日まで大町市平診療所の医師平林慎男の治療を受けたが、主として左側胸部の疼痛・食欲不振・嘔吐を訴え、又時々心性浮腫を生じ、全般的に衰弱症状を呈し、右疼痛の緩和をはかるため左胸部に綿を入れていた、平林医師は鎮痛剤および強心剤による注射療法を試みる一方、消化剤の投与により体力の回復に努めて将来の外科的処置に備え、昭和二十七年十月二十日豊科赤十宇病院の医師最所邦広の診察を受けさせたこと、(二)原告は豊科赤十宇病院で最所医師より昭和二十七年十月二十一日高橋医師が切除した左第八乃至第十肋骨部に生じた化骨および瘢痕、それによる神経癒着並びに神経腫の摘出・切除手術を受け、更に石井医師より翌年一月十四日胃下垂・腸下垂、子宮脱に対する手術を受け、同月三十日退院したのであるが、前記左胸部の疼痛は高橋医師の肋骨切除手術後切除部位に徐々に形成された神経癒着並びに神経腫によるものであり、最所医師の手術は右神経腫等の摘出手術であつて、肋骨周囲膿瘍に対するものではなく、又胃下垂等の内蔵下垂症は肋骨周囲膿瘍に原因せず、原告の体質によるものであること(三)原告の心蔵の位置は通常人よりやや左に寄つているが、それは肋骨周囲膿瘍乃至肋骨切除に原因するものではないこと、が夫々認められ、右認定に反する原告本人尋問の結果は措信できない。そして労働者災害補償保険法第十三条は療養補償費の支給される範囲を政府の必要と認めるものと規定し、政府の必要と認めるものとは労働基準法の定める範囲と同様療養上相当と認められる療養と解すべく、労働者災害補償保険法第十二条・第十三条、労働基準法第七十五条乃至第七十七条に照せば、療養上相当と認められる療養であるためには、療養の効果が医学上一般的に期待できる場合に限られ、症状が安定し、疾病が固定した状態となり、治療の必要がなくなつたときは、たとえ身体の障害が残存していても、右疾病は治癒したとすべきであるところ、前記認定の事実によれば、周囲膿瘍に侵された肋骨の部位は高橋医師の手術により全部除去され、その後肋骨周囲膿瘍は生ぜず、爾後の内科的、外科的治療は貧血・心悸亢進・胃腸障害・梅毒等に対する療法および右の切除手術後徐々に形成された神経腫・神経癒着等の摘出手術であつて、肋骨周囲膿瘍の治療ではないことが明かである。従つて原告の肋骨周囲膿瘍は高橋医師の三回の手術によりその急性症状は消退し、再発の危険等急激な変化の虞はなくなり、医療効果を期待し得ない状態となつたものというべきであるから、肋骨周囲膿瘍そのものは創面が癒合し、抜糸した昭和二十四年十二月十九日治癒したものと認められる。そして全身倦怠・嘔吐・貧血等の症状が高橋医師の手術後長期間に亘り改善されなかつたのは、原告の弛緩性体質、神経症的精神状態、および肋骨周囲膿瘍およびその手術とは関係のない陳旧性肋膜炎・胃腸障害・内蔵下垂症・心悸亢進・梅毒・左胸部疼痛等によるものであることが前顕乙第一、第三乃至第六、第八・第九号証、同第七・第十・第十一号証の各一・二および証人鳥養進、同高橋守雄、同徐先渭、同宮下努、同平林慎男、証人兼鑑定人高橋正義の各供述に徴して認め得られ、又左胸部の疼痛が消失せず、却つて増強したのは、手術後徐々に形成された神経癒着および神経腫のためであることは、先に認定したとおりであるから、昭電病院退院当時(手術後一年六ケ月を経過している)の全身倦怠、嘔吐・貧血・胸部疼痛等の前記症状は肋骨周囲膿瘍およびその手術によるものとは認められない。又前記神経癒着および神経腫は外科後措置により治療されるべきものである。従つて右病院退院時には肋骨周囲膿瘍は治癒していたことが明らかであり、信大病院入院以後の療養が療養補償の対象となり得ないことはいうまでもない。
以上認定の如く原告の受けた業務上の災害は右第四肋骨部の不完全骨折であつて、昭和二十四年五月上旬治癒しており、仮に右骨折の外その頃発病した肋骨周囲膿瘍が業務上の疾病であるとしても、それも昭電病院退院当時には治癒していたのであるから、原告の業務上の疾病は昭和二十六年五月十六日原告が昭電病院から信大病院に転医した時期において治癒したものとして、昭和二十六年五月十七日以降の信大病院における療養費を支給しないとした被告の本件処分には無効とすべき重大かつ明白な瑕疵ありとは到底認めがたく、原告の請求は理由がない。よつて本訴請求を棄却し、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法第九十五条・第八十九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 田中隆 高野耕一 正木宏)